宣教

2015-06-21
「天国が、天国に」

 イザヤ56:6,7 ルカ14:15〜24
 「天国とはどんなところでしょう?」と問われ、バルトは「あなたの気に入らない人もいっぱいいるところです」と答えました。
 「神の国」はイエス様の中心的使信でした。イエス様の足跡をたどれば、神の国がどのようなものであるかが解ります。今日の御言葉でいえば、ユダヤ人にとっての「異邦人」もそうです。ルカでは「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」のいるところが天国です。
 イエス様は、宣教の第一声で「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」でした。また「神の国は見える形では来ない。〜あなたがたの間にあるのだ。」といわれました。
 「主の祈り」は「御名が、御国が、御心が!」と祈るようにとイエス様は教えられました。イエス様がわたしたちに求めるようにと言われた「御国」は、いま、ここに」こそもたらされるものであることを、わたしたちは知ることができます。
 この、御国をもたらす場所に、わたしたちはいるのです。そのために必要なのは、「聖霊による謙遜と勇気」に満たされた私たちの信仰です。

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2015-06-21
「天国への招待状」

 ヨハネ15:12〜13
 野生の象は大きく、力強く、しかも、時速40キロで走ることができます。これは人類最速のウサイン・ボルト選手の時速37キロを上回るものです。そのゾウを無力にする方法は、幼いときにロープで木に縛り付けておくことです。すると、大きくなってもロープに繋がれたまま、死ぬまで木から離れないでいるそうです。私たちは色々なものに縛られて生きています。それは悪いことではありませんが、この世の常です。しかも、あのゾウのように、縛られていることすら分からない場合もあるのです。
 罪という大木にロープで繋がれ、身動きがとれなくなっている私たちのため、神は主イエスをこの地に送り、その罪の縄目を解き放つために十字架へと歩ませられました。それは、人が罪という名の大木につながれたままでは決して見ること、触れることのできないものに到達させるため、何としても必要なことでした。
 十字架の下で、「自分を救ってみろ」と叫ぶ人々は、見てから信じる、というこの世界の様相を表しています。しかし、神はいつでも、信じることを先に置かれます。信じ、罪から解放されなければ、罪という木の周りの景色しか知らないのです。しかし、神は、罪の外にある素晴らしい世界を見せたいと願っておられるのです。

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2015-06-08
「天国の種子」

 哀歌3:22〜24 マタイ5:43〜48
 「天国はどんなところですか?」と聞かれ、「あなたの嫌いなはずの人がいっぱいいるところです」と答えたのはカール・バルトです。「うーん!なるほど!」
 「自分にピッタリ!」なんていうところはありません。まして、自分の思いどおりになるところが天国だなんて、思い違いもはなはだしいと気づきます。
 イエス様の中心的使信は「神の国」でした。イエス様は、「神の国をもたらすため。神の国の住人にわたしたちをするために」おいでくださいました。
 どのようにしたら、神の国の住人になることが出来るのでしょうか。それは「自分を迫害する者のために祈ること。天の父のようになること」によってです。 天の父のようにとは、ご自分の子を罪人のために与えるほどの愛「決して絶えない、決して尽きない、朝ごとに新たなる慈しみに生きる」ことを通してです。
 主のように、「余分」を生きることです。「1ミリオン強いられたら2ミリオン」行くこと。ここにこそこそ「天国」がもたらされるのです。
 主がそのようにされたのは、わたしたちもそのように生きるためです。「余分」の中にこそ天国の種子が宿っています。「ニコニコ」と感謝をもって。

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2015-05-31
祈りを生きる

 箴言25:21・22  ローマ12:9〜21
 あなたの行動原理は何でしょうか。考えたことはありますか。自分としっかり向かい合うと、「怒りと嫉妬」がその原因であることに気づく人が多いのではないでしょうか。人類最初の殺人事件(カインとアベル)も嫉妬から発した怒りによるものでした。
 戦後70年、世界はまたもやおろかな歩みに逆戻りしつつあります。そんな中で、「主の祈り」の豊かな命に気づきます。キリスト者の生活と信仰が余すところなく明らかにされています。
 イエス様の宣教の始まりは、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」でした。イエス様と共に、その時、「天が地に侵入」したのです。いと小さき者が貴まれる天の国がやってきたのです。
 教会とわたしたちは、その天国を生き、また、地上に天国をもたらすために招かれました。それはいつも、「今、ここで」神様との愛の関係を生きることです。それは、「自分で復讐せず神の怒りに任せる」すなわち、愛を生きつつ、神の最善を信じることです。
 「御名が、御国が、御心が」と祈り、それを切なる願いとし、感謝しつつ生きるところに、「キリスト者の標準」聖霊に導かれる、新しい生活があるのです。  

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2015-05-24
若者も老人もすべての人が

 使徒言行録2:17〜18
 今日はペンテコステ(聖霊降臨日)です。あの臆病で、事があると容易にイエス様のもとから逃げ去った弟子たちに、驚くべき新たな出発の時が備えられました。人間的には、屈辱と自己嫌悪以外の何ものをも生み出し得ない出来事が、「神の似姿(かたち)」を取り戻す驚きの時となりました。
 聖書はいつも驚くべき神のご計画に満ちています。「神の思いはわたしたちの思いと異なり、わたしたちの道と異なる』(イザヤ55:8・9)のです。わたしたちの愚かな思いを、神のみこころと差し替えてはなりません。
 ご自身を見捨てて逃げた弟子たちに、復活のお姿を現し、事もあろうに、その彼らに新しい聖霊の力を注ぎ、真実のいのちを与え、使徒として遣わされた主は、今、その聖霊をわたしたちに与えて下さるのです。
 愚かな間違いを犯したダビデが、「神よ、わたしの内に清い心を創造し 新しい確かな霊を授けてください」(詩編51:12)と祈った時、新しく生きることができたように、それに優りて余りある聖霊を弟子たちに与えられました。それ以上に、今、わたしたちを聖霊により取扱われます。
 「若者は幻を見、老人は夢を見る」との約束が実現しました。恐れてはなりません。あなたは主の証人とされたのです。主はあなたをご自身に必要な、愛するものとして召されました。「力、愛、思慮分別の霊」を与えて!

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2015-05-17
不可能が膝をかがめる時

 詩編100:1〜5 Ⅰヨハネ4:16〜21
 「キリスト教の本質というものは、イエスの語られた如く、われわれが愛することを通してのみ神との交わりに到達するということである。生き生きとした神認識の一切は、われわれが心の内に、それを愛の意志として経験するかどうかにかかっている。」(A.シュバイツァー)世界一級の神学者、オルガニスト、医師が全てを捨ててアフリカに渡りました。アフリカ行きを残念がった師に、「神がわたしを呼んでいますから」と称賛と名誉の地に別れを告げました。神が呼んでいない人生などないのです。
 この世の価値観の中には平安が存在しないことをしっかりと知りつつも認めたくない自分がいます。そんなわたしに主は、「解き放て」と言われます。「わたしの愛にとどまれ!」と。
 イエス様御自身の足跡をたどること、それは愛を生きることに他なりません。使徒たちは、信仰の先輩たちは、主とともに愛を生きました。奇跡とは神の業ですが、これこそキリストの十字架と復活に示された愛によって担保されているものなのです。
 不可能(サタンのはたらき)が膝をかがめるのは、賛美と愛の満ちる喜びの宴です。

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2015-05-14
変えられた名前

 創世記32:23〜33 ヨハネ17:26
 昔から、名は体を表すという言葉があるように、名前はその人の在り方を表すものと考えられてきました。ヤコブの人生は、「押しのける者」という名が示す通り、謀略に満ちたもので、人を蹴落として生きるものでした。しかし、彼の心は不安と恐れでいっぱいでした。そして、ついに自分の力ではどうにもならないところまで来てしまったのです。そこで彼は人に頼ることをやめ、独り神の前に立ちました。
 彼は一晩中神と交わり、祈り、格闘しました。そこで、彼は自分の歩みを悔い改め、新たにイスラエル(神が支配される)という名前を与えられます。戦いで負傷し、足を引きずる彼の上に、朝日が昇ってきました。
 神は必ず私たちを救ってくださいます。そのためには、イエス・キリストの十字架のもとに自らの古い慣習を捨て去り、悔い改める必要があります。それは痛みを伴う作業であり、たった独りの戦いです。ヤコブは罪に支配された世の法則ではなく、愛によって支配する神の法則に身を寄せるために戦いました。この十字架の戦いを経た信仰者の心には、燃えて輝く復活の朝日が差し込んでくる。これが永遠に変わらない神の愛の法則です。

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2015-05-14
小さく偉大な一歩

 詩編103:6〜13エフェソ4:32〜5:5
「キリストの薫る教会」は「キリストの調べある教会」でもあります。「臨在溢れる教会」でもあります。解放、救い、癒やしの業、聖霊の働きに「今、ここで」出会える教会ということです。
 マザーの「愛の光線」という祈りです。「主よ、お助けください。 わたしがどこにいてもあなたの香りをただよわせますように。あなたの”霊”といのちとで わたしの心を満たしてください。わたしのいのちがことごとく あなたのいのちの輝きとなりますように。 主よ、あなたご自身が わたしの存在を完全に支配してください。わたしの接する人が皆 わたしの中にあなたの現存を感じとれますように。わたしを見る人がわたしではなく あなたをこそわたしの中に認めますように。 主よ、わたしの中にとどまってください。そうすればわたしも 常にあなたの栄光をこの身に反映させ 兄弟姉妹の光となることができるでしょう。」
 福音書の弟子たちと、使徒言行録の弟子たちとは別人です。彼らはキリストの証人として、キリストを、主の香りと調べを生きました。そして、神の国は前進しました。キリストに遣わされているわたしたちです。

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