156センチの視線

2015-06-21
「新しい時の創造」

教会に「人が来なくなった。年寄りばかりになった。」と嘆きの言葉が聞かれるようになってずいぶんになります。不確かですが、41年前わたしがこの地で伝道を開始したとき、各教会の教勢は今日よりは確実に多く、大きな教会を中心に半減した教会もあります。その頃でさえ教勢衰退の危機感が語られていました。
 考えてみると、明治初期、あの伝道困難の中での教会の歩みが豊かな実りを与えられ、さらに戦後になり、キリストの教会が前進したことを考えると、今日のような老齢化等の自己弁護は看過出来ません。先ずは教職者自らが危機感を覚え、襟を正し、原点に帰り聖霊による教会形成に取り組む必要があります。
 与えられた遺産を守ることだけに心を用いる時、教会のみならず全ての働きは、間違いなく衰退の一途をたどることになります。「何かを失う最も簡単な方法は、それを増加させるために働かず、持っているものを維持する守備の態勢をとること」だからです。
 教会は、キリストによって、既に「全てにおいてすべてを満たして」いるところです。滅び行くこの世の価値観を教会の中心に据えることを決然と排除し、溢れるほどの祝福に心からの感謝し、新しい時を自らの内に創造していただくことです。信じ、祈り、聖霊の助けを求め、溢れるほどに与えられている今に感謝し、勇気をもって福音を携え、出かける時が来ました。

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2015-06-21
「感謝の祝福」

 4世紀の神学者、説教家であるヨハネス・クリュソストモスは、その名説教のため「金口イオアン」として知られた人です。それゆえに彼は妬まれ、当時のキリスト教指導者である大司教や司教等により、ローマ皇帝に告訴され、流刑地に移送中に帰天しました。
 教会の歴史もこのような愚かさを繰り返してきました。勿論今日もこのようなことが散見されることは言うまでもありません。しかし、それにもかかわらず、それ故にこそ、御言葉に生きる人びとの真実は、決して輝きを失うことはないばかりか輝き続けています。
 ローマ当局に逮捕され、投獄された彼は、「神様、ここにわたしを送られたのは、ここにも福音を聴くべき人がいるからであり感謝します。」と、牢獄で福音を伝え、怒りを買い、死刑宣告を受けます。その時「神様、聖徒の一番美しい死は殉教です。私のような者を殉教者に加えていただき感謝します。」と祈りました。
 このことが皇帝の耳に入り、彼が殉教できないように死刑中止を下したとき、「神様、感謝します。まだわたしにやるべき仕事が残っているので生き長らえさせられたと信じます。」と。
 愚かさの歴史をも含みつつも、このようなキリストの証人がいつの時代もに与えられてきたことに感謝しました。教会は、にもかかわらず、この世の希望として歩むことが出来るのです。わたしたちは?!

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2015-06-08
「過去という泉は深い」

『ヨセフとその兄弟たち』(ロマン・ローラン)の中に「過去という泉は深い」という言葉があります。旧約聖書の創世記にある数奇な生涯を送った「ヨセフ物語」を題材にしたものです。
 自分の「過去」が「現在」であることを噛みしめる昨今です。過去を消去しての現在は成立することは出来ません。現在はいつも過去の上に成立しています。精神分析はそれ故にこそ成立します。
 現在を生きるためには、過去をまるごと受け入れる必要があります。それ故、豊かな実りある人生を送るためには、過去を消去、忘却することではなく、「受容」することが必要です。過去を握りしめることではなく、開放することです。 
 ヨセフは父ヤコブの亡くなったとき、仕返を恐れる兄達にいいます。「恐れることはありません。〜あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民を救うために、今日のようにしてくださったのです。」(50:19〜)と。
 過去という泉とどのように向かい合うかは、その泉から何を汲み取るかと深く関わってきます。
 わたしたちは、自らと人びととの過去と向かい合いつつ現在を生きているのです。そして「彼、彼女」との出会いは、自分の過去でもあります。「インマヌエル」の過去と今に出会うことです。

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2015-05-31
信仰告白

 木村牧子さんの洗礼式に際し、牧子さんの信仰告白の抜粋を、心からの感謝をもって掲載いたします。
 「わたしが9歳の時、妹が聖愛幼稚園で聞いたイエス様の話をしてくれ、わたしたちの罪を背負って死んでくださったことを知り、イエスさまを信じクリスチャンになりたいと思うようになりました。〜妹が、「テレフォンバイブル」を教えてくれ、聴くようになり、石川先生に会いたいと思うようになりました。お花見の帰りに教会に寄ったのが28年前の36歳の時でした。長い毛筆の手紙をもらいましたが達筆すぎて読めませんでした。それから、両親や妹に送られて教会に来るようになりました。最近では教会の方に送迎してもらい出席しています。。両親から洗礼の承諾を得ることができ、嬉しさでいっぱいです。〜イエス様の弟子たちが、生まれながらの盲人について質問したとき、『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもありません。神の業がこの人に現れるためである』と応えられたこの御言葉がずーっとわたしの心の支えとして今に至っています。わたしの救い主であるイエスさまを信じて洗礼を受けることができることを、心から感謝します。これからも、苦しいこと、悲しいことがいっぱいあることは確実ですが、いつも一緒にいてくださり、神の子としてくださったイエス様の晴れ着を着ていれば〜どんなこともきっと乗り越えられると信じる信仰が与えられていることを感謝します。〜」

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2015-05-24
最善は今ここに

 「今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び踊ろう」(詩編118:24),「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(Ⅱコリント6:2)。全ては、「今、ここに」あることを、心に刻みつけて歩まなければ、との思いのなかに過ごすこの頃です。
 「きみの心に刻み込め。くる日、くる日が最良の日、だと。」(エマーソン) 「あの時は…!」と思うことの多いわたしたちです。しかし本当にそうなのでしょうか。「『青春がたのしい』と言うのは迷想である。青春を失った人たちの迷想である。」(S.モーム)の言葉には共感します。
 「若いころは良かった』という意味の言葉を聞く度、なんとも言えな居心地の悪さを感じてきました。それは、今を色褪せたと感じる自分の今を補償するためのまやかしに感じてしまうからです。青春が苦しかったのはわたしだけなのでしょうか。 「最善はまだ来ていない。今ここにこそある!」ことこそ、このペンテコステの出来事なのです。それは、「今、ここに」ある、イエス様の臨在による「新しい創造」の出来事が、「わたし」の出来事となったからです。
 最善は過去にではなく「キリストと共なる今』にあります。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」(Ⅱコリント5:17)最善の今を感謝しましょう。ペンテコステは今、ここに。

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2015-05-17
教会のエンジンルーム

 お忙しい日々の中におられることは十分承知し、それ故に一人ひとりのために祈る日々の中ですが、一方、「ぜひ時間をつくって祈祷礼拝Ⅰ、Ⅱにおでかけください!」とお招きいたします。
 申し上げるまでもなく、祈祷礼拝は教会のエンジンルームです。教会の当面する課題のみならず、一人ひとりのため、そしてあなたのためにも祈りが捧げられています。祈祷礼拝は、自らの霊性のバロメーターを知る祝福の時でもあります。愛を生きようとする時、自らの愛のなさを知るように、キリストとともに生きるための霊性をと願い祈る時、霊性の欠如している自分に出会うように。
 今週の神さん宅での恒例の「ふじ見祈祷礼拝?」は、豊かな交わり付きでしたが、たくさんの事が祈られました。二人の受洗希望者、二人の転入会者、入院中のAちゃんの癒やし、教会の働き、浪岡伝道所、地区、教区、個人,etc〜。このようにして教会の業は進んでいきます。さらに、心を合わせた祈りは、主にある深い絆を通し、今の愛の無い本当の自分に、支えられ、祈られてきた自分に出会合わせてくれます。 個人の密室の祈りとは全く異なる世界が開けてきます。この恵みを沢山の人に知ってほしいと願っています。信仰のダイナミックな生きて働く力に出会い、奇跡を生きる教会の歩みを共に喜び分かち合う為にも。

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2015-05-14
ヴィジョンを生きる信仰

 「主よ、あなたの御心を知る清い心を、あなたの幻(ヴィジョン)を生きる信仰を、それを実行する聖霊の力を与えてください」と祈っています。
 「何かを失う最も簡単な方法は、それを増加させるために働かず、持っているものを維持する守備の態勢を取ることです」との言葉を思い出します。今、教会とわたしたちがが心すべきことは、守ることではなく前進することです。このことを忘れる時、わたしたちは持っているものすらも失うことになります。
 教会は「神の御心を求め、生きる」ことにより、はじめて教会となるのです。この世の価値観を中心に据えて、教会になること、教会であることは出来ません。このことは、主の足跡をたどり、初代教会の歩みに目を注ぐことで明らかです。
 前進しなければ後退します。「幻がなければ民は堕落する」(箴言29:18)のです。教会から、わたしたちから否定的思いと嘆きを取り去りましょう。 自らが、感謝と喜びを生きる事なくして、どうして福音の喜びを伝えることが出来るでしょうか。
 人びとには「わたしたちの今」こそが福音なのです。「感謝は神の宝箱の鍵」です。「今こそ、心と魂を傾けてあなたたちの神、主を求め、神なる主の聖所の建築に立ち上が」(歴代上22:19)る時です。「御名が、御国が、御心が」の祈りをもって。

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2015-05-14
それでも神の国は前進する

 「それでも神の国は前進する」ということを、感じる事ができた先週でした。教会の聖性と、この世以上の世俗性を目の当たりにし沢山のことを今一度学ぶ機会となりました。残念至極でしたが、この弘前西教会の創立時の歩みと重なる情景が展開し不思議でした。
 浪岡伝道所移転改築計画は、それを見る人びとの信仰による品性と信仰を鮮やかに映し出しています。悲しくなるほどに、福音と信仰の、現在地。一つは、怒りと恐れ、今一つは賛美と感謝に伴う祈りと援助。
 しかし、わたしたちと浪岡伝道所は確かな主の備えと導きの中を歩んでいきます。聖書を今一度、この出来事とを重ねあわせ、特に福音書と使徒言行録を祈りつつ読み返す機会を与えられ感謝しています。
 「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなた方より前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5:11・12)「恐れるな、語り続けよだまっているな、わたしがあなたと共にいる。〜この街には、わたしの民が大勢いるからだ。」(使徒18:9)「わたしはイスラエルに7000人を残す。これは皆、バアルに跪かず、これに口づけしなかった者である」(Ⅰ列王19:18)栄光はただ主に!ハレルヤ!感謝!

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